Elephant in the Room

フィクションと死と医療をつなぐ実験的ブログ

不器用でもいい、自分の言葉で

 別に、このブログの存在を忘れていたわけではない。考えていなかったわけでもない。余裕がなかった、ということなのか。それともここに書きたいようなことが、あまり見つからなかったのかもしれない。

 いずれにせよ、前の記事投稿から10か月が経過しようとしている。

 

詩集から死を感じとる

 あえて今回ここに、と思ったのは詩集がきっかけだ。しばらく重たい石で開かないようにしていた蓋を、この詩集が開けてしまったかのようだ。

死んでしまう系のぼくらに

 

 詩ということもあり、切り取って紹介したところで意味もなく、もう手にとってもらうしかここで伝えられるものもないわけだが、あえて一節を引用する。

わたしたちはだれも、このことについて語るすべをしらずに、いつかやってくる死にまきこまれて、眠る。

「恋文」

 

言葉は何のためにあるのか 

 もやもやしたまま詩集を読みつづけ、あとがきではっとして軽い衝撃を受けることになる。心を動かされた、といってもいい。

 言葉は、たいてい、情報を伝える為だけの道具に使われがちで、意味のない言葉の並び、もやもやしたものをもやもやしたまま、伝える言葉の並びに対して、人はとっつきにくさを覚えてしまう。(中略)言葉も、情報を伝える為だけに存在するわけじゃない。

 

「あとがき」

 

 言葉は何か意味のある情報を正確に伝えるためにある。そういった考えにちょっとこだわりすぎてきたように思える。

 科学的な情報というものには、そもそもそういった側面がつきまとっている。正確な定義、正確な数値、受け取り側に誤解の生じにくい表現を、追求しつづけている領域だからだ。

 

 しかし、感情を表現して伝えようとするなら、意味がしっくりしなくても他人が理解しやすいような言葉を選んだり置き換えたりするなど、他人に媚びる必要はないはずだ。

 ぼくらは言葉のために生きているわけでも、意味のために生きているわけでもない。

 表現者としては不器用な自分。もしそれがわかりにくかったとしても、もやもやしたままの自分の表現で言葉を発していきたい。

 少なくとも、ここでは。

 

 ということで、ぜひこちらをどうぞ。 

死んでしまう系のぼくらに

死んでしまう系のぼくらに

 

 

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