象の操作室

Elephant in the Room

フィクションと死と医療をつなぐ実験的ブログ

ふりかえってわかる師もある

師の死

 私のひとりの師が亡くなった。 といっても、教えを受けてから30年も経っている、小学校教師のことだ。

 30年も前のこととなると、師に関する想い出は断片的なものになっている。当時の輝かしい活躍についてはもちろんはっきりと覚えているのだが、いったい師がどのようなことを、どのように教えていたのか、その記憶は不鮮明となっている。

 

 そんなことで師と呼べるのか・・・。師が亡くなったという連絡を同窓生から受け(30年会っていない人から連絡がとれること自体が驚愕に値することではあるが)、ここ数日、遠い記憶を辿るようにふりかえってみて、師の教えは自分の人生に生かされてきたのだ、ということを確信した。

 

 師とは何か。地下水の源流のように深い谷間に眠り、無意識のうちに影響を与えつづける存在ーこれこそ、ひとつの師のあり方なのかもしれない。

 

内田の師匠論から

 師とはどんな存在か、内田樹さんの本を手にする。いくつか引用しながら、備忘録としておきたい。

修業論 (光文社新書)

修業論 (光文社新書)

 

  成熟を果たした人間にしか、「成熟する」ということの意味はわからない。幼児が事前に「これから、こんなふうな能力や資質を開発して、大人になろう」と計画して、そのようにして起案されたロードマップに基づいて大人へと自己形成するということはありえない。

 幼児は「大人である」ということがどういうことかを知らないから幼児なのであり、大人は「大人になった」後に、「大人になる」とはこういうことだったのかと事後的・回顧的に気づいたから大人なのである。成熟した後にしか、自分がたどってきた行程がどんな意味をもつものなのかがわからない。それが成熟という力動的なプロセスの仕掛けである。

 

 学んでから事後的・回顧的に学んできたことに気づくことが、学びの本質なのだ、という言説が、繰り返されている。

日本辺境論 (新潮新書)

日本辺境論 (新潮新書)

 

 学びは学んだ後になってはじめて自分が学んだことの意味や有用性について語れるようになるという順逆が転倒したかたちで構造化されています。

 私が「私の師」を選んだとき、私はいくつかの選択肢、何人かの師を比較考量し、吟味の上で、その中で客観的に見てもっともすぐれたものを採用するということをしていません。そして、私たちはそれがおかしいとは少しも思わない。師に就いて学ぶというのはそういうことだからです。

 

 学びの構造上、あらかじめ(自分に合った)師というものを選ぶことができない。師との出会いとは、偶然の産物なのかもしれない。

 

 しかし、師との出会いは神のみぞ知る、運は天にあり、というわけでもなさそうである。

レヴィナスと愛の現象学 (文春文庫)

レヴィナスと愛の現象学 (文春文庫)

 

  師とは私たちが成長の過程で最初に出会う「他者」のことである。師弟関係とは何らかの定量可能な学知や技術を伝承する関係ではなく、「私の理解も共感も絶した知的境位がある」という「物語」を受け容れる、という決断のことである。言い換えれば、師事するとは、「他者がいる」という事実それ自体を学習する経験なのである。

 「知」というのは量的に計測できるものではない。それは情報や知識の「量」のことではない。そうではなくて、「私が知らないことを知っている人」との対話に入る能力のことである。

 

 師という他者がいることをいかに自分が受け容れるか。ここが学びの本質なのだということだろう。

 

30年を経て師事する

 30年という長い年月を経て、師がどのようにな奥義をもっていたのか、知りたいという欲求(内田さんは「欲望」と表現している)にからめとられている。今さらながら、師という他者の存在を認識している始末。やっと大人になった、ということだろうか。

 

 こうして考えるようになったことこそ、師から学んでいたことの証なのだろう。師弟関係や師事しているという自覚がなくても、ふりかえってわかる師もあるのだ。

 

 師は後世に何を残したのか、そして自分は後世に何を引き継いでいくのか。教育や学びの本質について思索しながら、これから探求をしていきたいと心に誓った。

 

 Copyright © 2003, 2007-2017 地域医療ジャーナル