象の操作室

Elephant in the Room

フィクションと死と医療をつなぐ実験的ブログ

土の中に何かが埋まっている

 引越しがようやく一段落。たくさんのモノに囲まれていることを再認識することとなったが、これからの人生に必要なモノはどれほどあるのだろうか?

 本についても然り。

 

 思い出という名の記憶と忘却のなかで、われわれは暮らしている。昔読んだ本を手にすることで、当時の記憶を鮮明に蘇らすことができることもあるが、そのことにどんな価値があるのか、いまだよくわからない。

 

 一段落したのはモノの整理だけで、まだ気持ちは落ち着いていないのか、こうして夜に目覚めてしまう。 困ったものだ。

 

ひっかかる何か

 まだ読んでいなかった、村上春樹さんの短編集を手にした。

 やはり、ここで取り上げたいのは「土の中の彼女の小さな犬」だ。

中国行きのスロウ・ボート (中公文庫)

中国行きのスロウ・ボート (中公文庫)

 

 とある理由で、一年前、土の中に埋めた愛犬を掘り起こすことになる。

「ふたを開けると、犬の顔が見えたわ。見ないわけにはいかなかったのよ。埋めた時に犬をくるんでおいたセーターがずれちゃったらしくて、前足と頭がとびだしていたの。

<略>

べつに怖いっていうんじゃなくても、せめてつらいとか悲しいとか、そういうのでもよかったのよ。でも・・・・・・何もなかったのよ。何の感情もなかったわ。まるで郵便受けまで行って新聞をとって戻ってくるような、そんな感じ。本当に、私が本当にそんなことをやったのかどうかさえ確かじゃないのよ。あまりにもいろんなことをはっきりと覚えているためなのね、きっと。ただ匂いだけが、いつまでも残ったわ」

 

 埋めた犬を掘り起こすような体験をしたことはない。いったいどのような体験だろうか。

 ただ、そのような体験を想像することが大事だ、ということではない。そのような体験をちょっと想像してみることでひっかかる何か。強制的に呼び覚まされてしまう記憶や感情なのだろうか、そのひっかかる何かなのだ。

 

 そのひっかかる何かを言語化することはできない。コトバにすることで、なにか役に立つとか、たどれるようになるわけではないだろう。

 そこにこそ、フィクションの価値があるのだ。

 簡単にコトバにすることができるのなら、なにもわざわざ小説にしなくても表現できるだろう。

 

 そして、そのひっかかる何かについてじっくりと考えてみることは、とても意義があることだと思える。それはきっと、過去の思い出や記憶それ自体をなぞらえること以上に、意義があることなのだと思える。

 

 土の中にまだ眠っている。

 

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