象の操作室

Elephant in the Room

フィクションと死と医療をつなぐ実験的ブログ

社会全体の思考停止

 今回紹介するのは、フィクションではなくドキュメンタリーである。

 ドキュメンタリーにはフィクションとの共通点があるのではないかと思う。普遍性とでも言ってよいかもしれない。その普遍性は、ひょっとして大きなテーマのひとつではないか、とにわかに確信している。


「A」―マスコミが報道しなかったオウムの素顔 (角川文庫)

「A」―マスコミが報道しなかったオウムの素顔 (角川文庫)

 オウム真理教の信者を追ったドキュメンタリーである。ここに描かれているのは、そしてとても印象に残ったのは、当時のオウム真理教の姿ではなく、1995年当時の日本の姿である。

ドキュメンタリーの仕事は、客観的な真実を事象から切り取ることではなく、主観的な真実を事象から抽出することだ。(p. 89)

事実と報道が乖離するのは必然なのだ。今日のこの撮影だって、もし作品になったとしたら、事実とは違うと感じる人はたぶん何人も出てくる。表現とは本質的にそういうものだ。絶対的な客観性など存在しないのだから、人それぞれの嗜好や感受性が異なるように、事実も様々だ。(p.171)

 なにかひとつの客観的「真実」がどこかに存在するわけではない。ドキュメンタリーであっても、フィクションであっても、その「作品」の作成プロセスは異なっているとはいえ、ひとつの表現である。ニュースだってそうだ。それらの表現に、本質的な違いはない。

 一橋大学の学生のディスカッションの場面は象徴的だ。

「全員が同じ情報で同じ思考に陥るよりはましかもな」
「でもさ、けっこうやばい状況かもしれないぜ、それ」
「欧米では、メディアリテラシーの意識は確かに日本よりは数段進んでいるわよ。メディアの状況は同じようなものだけど」
「何かさあ、自分の言葉でものを考えられないメディアの構造って、オウムの構造に似ているよな」
「メディアだけじゃなくて、社会全般じゃない?本質的には変わらないわよ」(p.172)

 社会全般の思考停止。このドキュメンタリーを読んで、2012年の日本は、1995年当時の日本と何ら変わっていないのではないかと感じる。

 あれから17年の歳月が過ぎ、いろいろな事件が起きた。日本人のメンタリティや社会構造に問題があるとしたら・・・そんなようにも思えてくる。

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