象の操作室

Elephant in the Room

フィクションと死と医療をつなぐ実験的ブログ

嘘みたいな物語の定型

 今回もまたフィクションではなく、本当の話だ。

嘘みたいな本当の話 (文春文庫)

嘘みたいな本当の話 (文春文庫)

 

 

 Amazonのレビューにもあったが、ストーリーよりもまえがきと巻末対談がおもしろい。応募総数1500通の嘘みたいな本当の話を読んでみると、不思議なまでに共通点があったそうだ。

 日本人には物語にも国民的定型があるようだ。書き手は無意識のうちにこの物語的定型をなぞらえ、読み手は期待されるその定型とのずれを楽しんでいるのではないか、と。

 

 確かに、診察室で語られる物語(ナラティヴ)も定型があり、死生観にも定型がある。無意識のうちに何らかの定型に回収させているのだろう。

 文脈にとらわれすぎている、と言ってもいいだろう。

 日本人の特性なのだろうか。少なくとも、このような傾向が観察されることには注意を払いたい。

 

 さて、この本の中のストーリーを読んでいて、ひとつ思い出した幼少時のできごとがある。「嘘みたいな本当の話」風に書いてみた。

 祖父が運転する農耕用トラクターの運搬車の車輪に、右手を轢かれたことがある。どんな場面だったか今となっては詳しく思い出せないのだが、トラクターに乗っていて転落し、寝そべった状態で顔の目の前で自分の右手が轢かれていく場面と、痛重い感覚だけは今でもはっきりと覚えている。

 車輪に轢かれるまま、あわてて引っ張らなかったのがよかったのか、幸いにも「まったくの」無傷だった。病院に行くことさえなかった。自分は不死身だと思った。

 ところが、家族や友人に手を車に轢かれた話をしても、「そんなはずはない」「無傷なわけない」「記憶違いだ」と誰にも信じてもらえなかった。そのうちに、あれは本当だったのだろうかと自信がなくなっていった。

 今でもこうして右手は問題なく使えている。

 

 これも定型に回収させているだろうか。もちろんフィクションではなく、本当の話だ。

 

無限に小さな生

 ひきつづき、片山恭一さんの作品を。

生きることの発明 (小学館文庫)

生きることの発明 (小学館文庫)

 

 

 3つの短編が収められており、いずれも死や生を取り扱ったものである。リアルな描写は、まさに自らの体験に基づくもののためだ。

 

「無限に小さな生」は、父が亡くなっていくという体験を小説にしたものである。読みやすい文章と展開のなかに、死について正面から思索する作者の姿勢が印象的だ。

 いくつか引用しておきたい。

何を言っても、どんなふうに考えても、うまく言葉が届かない。それが「死」にたいする、偽らざる実感である。ぎりぎり言えることは、「わからない」ということではないだろうか。

死は本来的に、誰かとのあいだに起こる。

老いや死を、いかなる無理や虚飾もなく、本心から「良いものだ」と言えたら、人間は確実に変わるだろう。

 

 死をタブーではなく良きものとしてとらえることができるか。それはどのようにして可能となるのか。 

 老いること、死に近づくことを積極的にとらえること。それが、今、足りないことなのだろう。

 

  医療の場面については、ほぼそのものの描写だ。医療はどのように死と向き合うのか、考えさせられる小説だ。

 

「どこに向かって死ぬか」を読んでからこの小説を読むと、さらに作者の主張について重層的に理解が深まるかもしれない。

どこへ向かって死ぬか (小学館文庫)

どこへ向かって死ぬか (小学館文庫)

 

 

どこへ向かって死ぬか

 今回もまた、フィクションではないが、ブログのテーマと関連があるだろう。

 たまたま書店スタンドで手にしてしまった。読了したばかりで、まだうまく言語化できていない。

 ただ、圧倒された感じだ。

どこへ向かって死ぬか (小学館文庫)

どこへ向かって死ぬか (小学館文庫)

 

 

 日本からフランスへ渡った孤高の哲学者、森有正。その足跡をなぞらえながら、「世界の中心で、愛をさけぶ」で一世を風靡した著者が、孤独と絶望と死について、深い思索を展開する。

 ここまで書いて、まったく本の内容を説明できているような気がしない。

 まずは一読をすすめる。

 そして、少しよく考える時間がほしい。

 医療の取り組み方ばかりか、生き方そのものを見直すべきかもしれない。

 これまで考えてきたことの突破口が開かれ、視野が開かれた感じだ。もう少しこの本の周辺を散策してみたい。

 

記憶にかたちがあるなら

 半年前に書きかけていた下書き原稿。書いたことも忘れかけていたが、せっかくなので手を加えて出してみる。

 

 記憶に、もしかたちというものがあったとしたら・・・自分なら、いったいどんなコトバで例えるだろうか。

 

 霧とか朝もや。いや、これもありふれた表現だろうか。

 

 モンキー vol.2 特集「猿の一ダース」から、川上未映子さんの短編「彼女と彼女の記憶について」は、ここで取り上げたい印象的な作品である。

MONKEY Vol.2 ◆ 猿の一ダース(柴田元幸責任編集)

MONKEY Vol.2 ◆ 猿の一ダース(柴田元幸責任編集)

 

 

 徐々に遠い記憶が蘇っていく過程が、とても鮮やかに描写されていく。同窓会に参加して、忘れていた過去が少しだけ紐解かれる。

 そして、遠い記憶と同級生の死が、トイレの洗面台でつながっていく。

 

 恥ずかしながら、私も泥酔して記憶がなくなり、翌朝に前日のことがよく思い出せずに困った経験がある。今となっては、驚くべきことに、ほとんど酒を口にしなくなってしまったが、当時の経験を追想するかのようだ。

 残念ながら同窓会の経験は少ないが、郷里からとんと離れてしまった今、参加したらこうなるだろうなあ、と思うところもある。

 

 記憶とは不思議なものだ。どこまでが事実なのか。

 そもそも、記憶とは何なのか。実体、といったとしても、手にとれるような何かがあるわけではない。人々の中に残る現象、ともいえるが、そもそも現象自体が同じものではないし、変質していくものだ。

 それでは、共有する人々に共通する現象、とか現象の共通基盤、といってみても、そもそも共通ではないだろう。

 

 作者は記憶を、ある日突然、人から手渡されるような箱にたとえている。そう、記憶は私に属していないものなのかもしれない。

 

本の記憶をよみがえらせる

 久しぶりの更新となってしまった。

 

 最近、あまりフィクションに手を出す余裕がなかった。或いは、読んでいたとしてもここに書いておくまでのものではなかった。まあ、そういう時期もあるだろう。気長にやりたい。

 

 しかし、どんな本を読んだのか、そしてどのように感じたのか、忘れてしまいがちである。本に直接メモすることもあるので、本棚の本を手に取って確認すればよいのだが、必ずしも本棚の決まったところに整理してあるわけでもない。

 

 手帳に書いておいたりもするが、いつ読んだのかを思い出すという、つらい作業が待っている。それも難しいので、手帳をめくりながら探すことになる。

 それはそれで楽しい作業だが、結果的にメモがみつからない、ということも経験もしばしば。やはり、本専用のノートがあったほうがよいかなあ、と思っていたところに、このノートの存在を知った。

 

 本についての基本情報を書かなければならないところが厄介だが、これも記憶のためか。フリクションボールペンなら、それほど違和感なく書きこめそうだ。

 

 少しつづけてみたい。本の記憶をよみがえらせるために。

 

死を意識する手段としてのフィクション

「読んでみてください」と短編小説を手渡された。こんなことは、はじめての経験だ。著者はいつも外来に通院しているなじみの女性だった。

 

 最近、趣味で書き始めたそうだ。晩年になってから小説を書きたくなるという需要は一定数あるのかもしれない。講習会のようなものがあるのだろうか。どこかで手ほどきを受けたらしく、短編小説らしい体裁は整っていた。文字はパソコンで印字され、挿絵入りで製本されていた。

 

 グループホームを舞台とした、高齢者と職員の日常を描いた物語である。

 

 あらすじはさておき、最後に添えられていた「あとがき」が印象的だった。この作品の創作を通して、自分の余生をどのように過ごしていくかよく考え、死を見つめることができた、という趣旨のことが書かれていた。

  あとがきまで読んではじめて、自らの死に方に対して正面から向き合った作品だったことを知ることとなったのである。

 

 フィクションは死を表現する手段のひとつである。そのテーマには普遍性があるが、表現の仕方は多種多様であるだろう。死が近づきつつあり、死を意識した人の表現は、そうではない人の表現とは大きく異なるものなのだろうか。

 

 晩年になれば、表現する力や創作力は低下するかもしれない。しかし、技術の進歩によって、より死に近づいたところからでも、より表現力の限界に近いところからでも、作品創作が可能となっている。さらには、そういった作品をすぐに共有することも可能となっている。

 

 晩年の作品を集めるというのは、興味深いテーマかもしれない。僕らは晩年の作品から、かすかな声を感じとることができるのだろうか。

 

ふりかえってわかる師もある

師の死

 私のひとりの師が亡くなった。 といっても、教えを受けてから30年も経っている、小学校教師のことだ。

 30年も前のこととなると、師に関する想い出は断片的なものになっている。当時の輝かしい活躍についてはもちろんはっきりと覚えているのだが、いったい師がどのようなことを、どのように教えていたのか、その記憶は不鮮明となっている。

 

 そんなことで師と呼べるのか・・・。師が亡くなったという連絡を同窓生から受け(30年会っていない人から連絡がとれること自体が驚愕に値することではあるが)、ここ数日、遠い記憶を辿るようにふりかえってみて、師の教えは自分の人生に生かされてきたのだ、ということを確信した。

 

 師とは何か。地下水の源流のように深い谷間に眠り、無意識のうちに影響を与えつづける存在ーこれこそ、ひとつの師のあり方なのかもしれない。

 

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