象の操作室

Elephant in the Room

フィクションと死と医療をつなぐ実験的ブログ

戦争も遠いできごとになってしまった国で

 「はだしのゲン」について。2013年8月18日の天声人語から。

天声人語 2013年8月18日 - Yahoo!ニュース - Yahoo! JAPAN

 

 引用は難しいため、原文はご一読を。ここでは、かいつまんで話を進めたいと思う。

 

 「はだしのゲン」は作者自身の被爆体験をもとに、当時の広島の酷い光景が描かれている。漫画は子供向けに抑えて描いたとされているが、それでも「残酷すぎる」と言われることがあったようだ。

 地獄絵のような場面を見れば、だれしも恐怖を感じるものである。しかし、そのような経験を経てはじめて、被爆体験を伝えることになるのだ、そういった趣旨だ。

 

フィクションの力

 いまだ経験していないことをありありと感じることは、なかなか難しいことだ。

 広島原爆投下から68年。時が過ぎ、時代は大きく変化した。そのような過去の体験ともなれば、知る方法はもはや限られている。

 

 そのような中で、「はだしのゲン」はいまだその魔力を保ち続けている。出版されて50年以上を経ていてもなお、ニュースの話題になっている作品なのだ。

 フィクションの力には、凄まじさを感じる。

 

排除することが教育か?

 戦争も死も、遠いできごとになってしまった国では、この本を小中学校の図書館で自由に閲覧できるようにしておくことは難しいことなのかもしれない。

 この本の扱いをどうするか、よく議論しておくことは、教育者としては大事なことだ。

 

 なんでも排除してしまえばそれで解決するのか?

 個人的な興味はその一点についてである。

 

 ただ、戦争も死も、遠いできごとになってしまった国では、学校の図書館でなくても作品を読むことができる時代になっているということを、忘れてはならない。

 

 Amazonでも買える。

〔コミック版〕はだしのゲン 全10巻

〔コミック版〕はだしのゲン 全10巻

 

土の中に何かが埋まっている

 引越しがようやく一段落。たくさんのモノに囲まれていることを再認識することとなったが、これからの人生に必要なモノはどれほどあるのだろうか?

 本についても然り。

 

 思い出という名の記憶と忘却のなかで、われわれは暮らしている。昔読んだ本を手にすることで、当時の記憶を鮮明に蘇らすことができることもあるが、そのことにどんな価値があるのか、いまだよくわからない。

 

 一段落したのはモノの整理だけで、まだ気持ちは落ち着いていないのか、こうして夜に目覚めてしまう。 困ったものだ。

 

ひっかかる何か

 まだ読んでいなかった、村上春樹さんの短編集を手にした。

 やはり、ここで取り上げたいのは「土の中の彼女の小さな犬」だ。

中国行きのスロウ・ボート (中公文庫)

中国行きのスロウ・ボート (中公文庫)

 

 とある理由で、一年前、土の中に埋めた愛犬を掘り起こすことになる。

「ふたを開けると、犬の顔が見えたわ。見ないわけにはいかなかったのよ。埋めた時に犬をくるんでおいたセーターがずれちゃったらしくて、前足と頭がとびだしていたの。

<略>

べつに怖いっていうんじゃなくても、せめてつらいとか悲しいとか、そういうのでもよかったのよ。でも・・・・・・何もなかったのよ。何の感情もなかったわ。まるで郵便受けまで行って新聞をとって戻ってくるような、そんな感じ。本当に、私が本当にそんなことをやったのかどうかさえ確かじゃないのよ。あまりにもいろんなことをはっきりと覚えているためなのね、きっと。ただ匂いだけが、いつまでも残ったわ」

 

 埋めた犬を掘り起こすような体験をしたことはない。いったいどのような体験だろうか。

 ただ、そのような体験を想像することが大事だ、ということではない。そのような体験をちょっと想像してみることでひっかかる何か。強制的に呼び覚まされてしまう記憶や感情なのだろうか、そのひっかかる何かなのだ。

 

 そのひっかかる何かを言語化することはできない。コトバにすることで、なにか役に立つとか、たどれるようになるわけではないだろう。

 そこにこそ、フィクションの価値があるのだ。

 簡単にコトバにすることができるのなら、なにもわざわざ小説にしなくても表現できるだろう。

 

 そして、そのひっかかる何かについてじっくりと考えてみることは、とても意義があることだと思える。それはきっと、過去の思い出や記憶それ自体をなぞらえること以上に、意義があることなのだと思える。

 

 土の中にまだ眠っている。

 

いまだ経験していないことを感じる

 以前読んだ本。あるALS患者の本棚で見かけてからというもの、心のどこかにひっかかっていて、遠い記憶をたどってみることにした。

逝かない身体―ALS的日常を生きる (シリーズ ケアをひらく)

逝かない身体―ALS的日常を生きる (シリーズ ケアをひらく)

 

 そういえば、ブログで紹介したことがあることを思い出し、自己レビュー。

文脈依存性アプローチの限界(1) | 地域医療日誌 by COMET [はてなブックマークで表示]

 

 ALSという病をもって生活する(あるいは闘病する)、ということはどういうことか、全くわかっていなかったことに衝撃を受けたのだろう。

 経験していないことを想像することの難しさ、患者の苦しみの物語りをかいつまむ(文脈依存アプローチ)だけでは理解できないことを強く認識した。

 

 本文から拾ってみる。

 ある晩、ひとりの若い看護師が病室にやってきて母に諭した。

「不自由さは想像できます。島田さんを真似ても一分も私には我慢できません。でも、大変だろうけれど慣れていかないと自宅に戻ったらご家族が大変ですよ。ここにいるあいだに訓練しておかないと家族がバテてしまいます。がんばってください。」

 これもよくある話で、看護師は患者に共感を示すつもりが、だんだん教育的になっていく。

 私は、なんて勝手なことばかりを言う人だと、なかばあきらめてしまった。それにトータリィ・ロックトインをそんな容易い状態だと決めつけないでほしいとさえ思った。ALSの看病をしたこともなく、文献でしか病気のことを知らないくせに!

 

 いまだ経験していないことをどのように感じることができるのか。少なくとも本書の読書体験が、今のALS患者のケアに何らかの影響を与えているのかもしれない。

 そして、ALS患者が本書を手にしたとき、どのようなことが起きるのか―。

 

 フィクションより具体的かつ直接的だ。ALS患者または家族、そしてケアに関わる人々という、状況や関心が似通った人にとっては、格好の教科書になるだろう。

 

 そして、そうではない人の場合、(多くの人はこちらに属しているだろうが、)他の病気の治療や医療全般にどう生かすかは、読み手側の能力が試されているのかもしれない。

 

ダンボールに囲まれて

 1年半ぶりにダンボールに囲まれている。

 タンスの肥やし、ならぬ、押入れの肥やしになっていたダンボールの数々。何度となくダンボールの入れ替えをしながらも、押入れの奥でひっそりと生き延びてきた負の遺産たち。ほとんど使われることなく、長いもので20年近くになる。

 

 開けてみると、昔考えていたこと、感じていたことが、おぼろげに蘇ってくる。まるで「タイムカプセル」のようだ。(そういえば、昔流行していたタイムカプセルは、忘れられることなく掘り起こされたのだろうか?)

 

 押入れの奥に眠っているもの―これはこれで、大事だったような気がする。これまで掘り起こすことなく生活できたことに、感謝しなければならないだろう。

 そしてこれからも、新しいダンボールに入れ替えしたら、またしばらく眠っていただくことにしよう。

 

 カーヴァーにも、「引越し」という短編がある。タイムリーだ。

象 (村上春樹翻訳ライブラリー)

象 (村上春樹翻訳ライブラリー)

レイモンド・カーヴァーの象

 タイトルにつられて、またレイモンド・カーヴァーを手にしてしまった。

 また、といっても、手にしたのは1年半前になる。時間が経つのは早いものだ。

 

 カーヴァーに「」という短編があることは知っていたが、なぜかこれまで手にしたことはなかった。

 

 今回は、自然と手が伸びてしまったような感覚だ。まるで、本が手を引き寄せたかのように。

象 (村上春樹翻訳ライブラリー)

象 (村上春樹翻訳ライブラリー)

 

 動物の「象」は最後まで登場することはなかった。おそらく、登場していない。見えていないだけかもしれないが。父に肩車をされる夢の部分で、象に乗っているようだ、との比喩があるだけである。

 

 しかし、この作品では、紛れもなく「象」について描かれているに違いない。あえてタイトルにまでしているのだから。

 カーヴァーが描こうとした「象」とは何か。ここに、決定的な命題が潜んでいるのだろう。

 お金が主旋律になっている作品ではあるが・・・あるいは欲望か。いろいろと思いを巡らせてみたい。

 

 この短編集は、カーヴァーが生前最後に発表したもののようである。病床で自らの死を意識しながら書いたとされる「使い走り」など、印象的な作品が並ぶ。こちらもぜひ、読んでみたい。

 

象はどこへ行ったのか

 久しぶりの投稿。よく言えば、構想をあたためていた、というところか。

 忘れていたわけではなくて、象について、毎日のように考えつづけている。象はどこに潜んでいるのか。

 

 以前、象とは何かでも書いた。

 「象はいつもどこかにいる。とてつもなく大きくなり、目の前に立ちはだかる。」

 

 とてつもなく大きな象。それは大きくなったり、小さくなったり。それは、見えなくなったり、見ていても見えていなかったり。

 

 象がフィクションとどう関係があるのか。それもまたよく考えていきたい。

 

 そんなことを考えていたら、4月からNHKラジオで気になる番組が。

 

NHK ラジオ 英語で読む村上春樹 2013年 04月号 [雑誌]

NHK ラジオ 英語で読む村上春樹 2013年 04月号 [雑誌]

 

 前半のパートⅠでは「象の消滅」が取り上げられる。注目だ。

 

リトル・ピープルと拡張現実

 ちょうど「1Q84」を読み終えたところで書店で見かけ、「リトル・ピープル」にひっかかり思わず購入。

1Q84 BOOK1-3 文庫 全6巻 完結セット (新潮文庫)

1Q84 BOOK1-3 文庫 全6巻 完結セット (新潮文庫)

リトル・ピープルの時代

リトル・ピープルの時代

 善と悪が対立構図となり、偉大な父権を行使することが期待されてきた「ビック・ブラザー」の時代から、大きく日本社会が変容してきたことには間違いない。小説やドラマやゲームがその時代の変化を先進的に鋭敏にとらえて支持されたのか、それともその逆なのか、まったく定かではない。まあそれはどちらでもよいことだ。

 いつのまにか「仮想現実」よりもさらにリアリティをもった「拡張現実」という視点が、フィクションにとどまらず日常生活にもすでに浸透していたことに、驚きを感じる。

 時代が「リトル・ピープル」を求めている。これは、政治も医療も同じなのだろう。鋭敏に感じとるべきかどうかわからないが、少なくとも意識はしておきたい。

 読み終えた後で「一般意志2.0」が頭をよぎる。

一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル

一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル

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